セントラル短資FXスペシャルインタビュー 松崎美子「ロンドンFX」が生まれるまで 【第2回】
松崎美子
松崎さん

Profile

まつざき・よしこ●1986年、スイス銀行東京支店にディーラーアシスタントとして入行する。1988年結婚のために渡英。翌年より英バークレイズ銀行本店ディーリングルームに勤務し、日本人初のFXオプション・セールスとなる。1997年から米投資銀行メリルリンチ・ロンドン支店でFXオプション・セールスを務め、2000年に退職。2003年から個人トレーダーとしてFXや株式指数取引を開始する。2007年春からはブログやセミナー、コラムを通じてロンドン/欧州関連情報を発信する。連載コラム「松崎美子の英国発!すこしFX☆なが~くFX

突然の帰国、そして銀行へ

 せっかく留学したのですが2年目に事件が起こりました。母親が体調を崩してしまったのです。一報を聞いて着の身着のまま帰国したのですが、母親の様子を見るととても一人で残してカナダへ戻れない。すでに両親が離婚していたこともあり、私が稼いで母を支えていかなければならなくなりました。カナダでの勉強が途絶えてしまうのは残念でしたが、これも運命なんだな、と。私は運命を結構信じてしまうほうなんです。抵抗しても自分ではどうにもならないことが人生にはありますから。

 そして最初に働くことになった会社がアービング・トラスト銀行(現バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)です。アービング・トラスト銀行での仕事は輸出入の為替業務でした。ディーリングではなく、書類のチェックです。採用条件は「英語が話せる人」だけだったので、面接を終えると「じゃあ明日からね」と、すぐに決まりました。身につけた英語を使う機会だと張り切っていたのですが、職場にいるのは「硝子」とか「薔薇」と漢字で書けるような日本語堪能なアメリカ人ばかり。議論も日本語で、デーブ・スペクターに囲まれたような職場でした(笑)。

 ところがその中にひとり、日本語の話せない外国人がいました。彼の役職はチーフディーラーでした。ディーラーと言われても、どんな仕事かまったくイメージがわかない。もっと知りたいけど、彼は閉鎖的なイギリス人。取り付く島もないので、ディーリングルームにいる日本人の彼にディーリングのことを教えてもらい「私にもできるかな?」と聞いてみたのですが、「いや。ディーリングは男の仕事だから美子にはムリだ」と言われました。この言葉が私に火を付けました。もう回り道はしません。

突然の帰国、そして銀行へ 松崎美子
大理石の灰皿が飛び交う職場で

 当時、仕事を探すほぼ唯一の手段だったのが日経新聞の求人欄です。そこに2つの銀行がディーラー募集の広告を出していました。ひとつは会った瞬間、合わないなと感じました。向こうも同じだったのでしょう。縁がありませんでした。もうひとつがスイス銀行。面接してみると、とてもおっとりしたスイス人で、その日のうちに「いつから来られる?」と。即採用が決まりました。

 第一印象はおっとりしていたスイス人の上司なのですが、キレると一巻の終わり。私がミスをしたり、彼がいいプライスをとれなかったりすると、大理石の灰皿がポンポン飛んで来るんです。私がよけると、後ろにあるモニターにぶつかって画面が割れました。当たったら死にますよね。スイスらしくお昼になるとカウベルを鳴らすんですが、そのカウベルも飛んで来る。一度、よけきれなかったことがあります。そのとき飛んできたのはホッチキス。顔に当たり、血をダラダラ流しながら、でもマーケットは動いているので病院には行けない。まさに生きるか死ぬかの職場でした。

 当時、私以外にも女性のディーラーはいました。スイス銀行では金のディーリング部門にひとりいましたし、JPモルガンやシティバンクにも女性がいたはずです。それに東京銀行にも大先輩といえる女性ディーラーがいらっしゃいました。ただ、為替の世界はやはりほとんどが男性。お客様から電話が来ても、女性が受話器を取ると「男性に変わってくれ」なんて言われるんです。女性というだけで見下されますから男性の5倍は努力しないといけない。外資系でもそうでしたから日本の銀行はもっと大変だったのではないでしょうか。

大理石の灰皿が飛び交う職場で 松崎美子
追い風となった「ザ・セイホ」

 スイス銀行東京支店では2年弱、働きましたが、結婚を機にイギリスへ転居することになりました。せっかくなら為替の本場であるシティで、それも英系の銀行で働きたかったのでビザの準備が整うと、バークレイズ銀行に応募しました。非英語圏の、しかも女性を採用するのは向こうも初めて。バークレイズにとっても一か八かだったと思います。運が良かったのは、当時、日本の生命保険が「ザ・セイホ」として注目されていたこと。日本人を採用することで、生保の玉(注文)を増やせるという期待はあったと思います。

 バークレイズではセールスとして働きましたが、おもしろいほど儲かりました。私が特別に優れていたわけではなく、日本人だったからです。バブルはもうはじけていましたが、日本の生命保険は今のヘッジファンドのような感じで注目されていた時代でした。日本人である私のもとへ嬉しいほど注文が来ました。日本人であれば誰でもよかったのだと思います。外国人からも多くの注文をいただきました。日本人で大蔵省や日本銀行と話している人がバークレイズにいるらしいと聞くと、「話を聞かせてくれ」と連絡がくるんです。

 ところが、バークレイズは不動産部門で多額の焦げ付きを出してしまい、ボーナスが激減しました。それまでのボーナスが10あったとしたら1.5になるくらいの激減。それが数年続き、みんなやる気をなくしてしまいました。ちょうどメリルリンチから声がかかっていたこともあり、私も移ることになりました。

追い風となった「ザ・セイホ」 松崎美子
バークレイズ銀行には8年勤務。忙しくも充実の日々を送る
為替が自分の存在証明だった

 バークレイズでは8年間働いたことになります。イギリス人って最初は冷たいんですが、いざ輪の中へ入れてもらえるととてもあたたかい。そんなところは日本人と似ていると思います。次に働くことになったメリルリンチは米系。英系は浪花節的なところもありましたが、米系は徹底的にドライでした。移るときには「どのくらいの玉を持ってこられる?」とあからさまに聞かれましたし、成績を残さないと人間として扱われない。バークレイズ時代と比べて給料は3倍になりましたが、初めて胃が痛くなる経験をしました。

 そんな苦労がありながらも、楽しい毎日でした。自分がやりたかった仕事はこれなんだという充実感がありました。英語を活かすということでは、たとえば映画の翻訳という選択肢もあったのかもしれません。きっと、映画を通じて人を喜ばせられる素晴らしい仕事だと思います。ただ、私は人を喜ばせるよりも、眠る前に「今日も充実していた」と思いたいんです。為替のディーリングはやればやるほど自分が磨かれていき、自分に自信が持てる。数字によってこれだけやったと充実感が持てて、自分の存在を証明できる。それが何よりの魅力でした。


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